これまでの放送内容 -サガテレビ(STS)-
2012年11月11日(日)
河童の挑戦
サガテレビで放送され、好評を得たアニメーション「河童五代目」。地元に伝わる河童伝説をもとに妖怪のフィギュアを使ってストリーが展開される番組だ。
サガテレビで放送され、好評を得たアニメーション「河童五代目」。地元に伝わる河童伝説をもとに妖怪のフィギュアを使ってストリーが展開される番組だ。制作の中心は佐賀のミニシアター系の映画館「シアターシエマ」を運営する会社の2人の映写技師写技師。作品の脚本・撮影・CGなどほぼすべての作業を手掛けた。アニメーションは大都市の制作会社で作られるものがほとんどである中、なぜ地方での制作を行うのか。代表の芳賀英行さんは「佐賀という地方でもこれだけの質の高いモノづくりができる。佐賀でクリエイターが集まって仕事をするような環境を作りたい」と目標を語る。現在、アメリカの会社から商品PRの映像制作の発注を受けている。佐賀から作品を世界に発信しようという試みを紹介する。
出演者:【プロデューサー】 正木伸一郎(テレビ西日本) 鶴丸英樹(サガテレビ) 【ディレクター】 南里高志(サガテレビ) 【ナレーション】 空閑薫
制作局:サガテレビ(STS)

2012年9月9日(日)
柿右衛門になるということ
磁器発祥の地「有田」で400年近く続く名窯「柿右衛門」。いずれ受け継ぐ大名跡を、どのような思いで、その名を、父を見つめているのか。若きリーダーの姿を追う。
磁器発祥の地、佐賀県有田町。その中でも、「柿右衛門(カキエモン)」は、1640年代に日本で最初に色絵磁器を完成したといわれ、400年近く続く有田の名窯だ。長崎から輸出された柿右衛門の色絵磁器は、ヨーロッパで最高の評価を与えられ、その名は今も憧れとともに語られている。当代、十四代(1934年生まれ)酒井田柿右衛門さんは、今は亡き十二代、十三代とともに、江戸後期に廃れたといわれる乳白色の「濁手」素地を復興し、今日、人間国宝として名工の誉を受ける。現在、一人息子の浩(1968年生まれ)さんと共に、職人の共同制作体制で、濁手による柿右衛門様式を守る重要無形文化財「柿右衛門製陶技術保存会」を率いている。20年前に比べ売り上げが1割近くにまで落ち込んでいる有田焼。この窮状の中、どのように栄光に彩られた伝統を後世に伝えていくか。有田の代名詞「柿右衛門」への期待は増すばかりだ。数年前から、父の命を受け浩さんが取り組むのが、有田泉山の陶石を100パーセント使った磁器の復興。原点回帰を図る挑戦だ。そうした中、十四代が病に倒る。闘病生活の中、後継者の浩さんにすべてを伝えようとする十四代。いずれ継ぐことになる柿右衛門の大名跡。浩さんはどのような思いで、その名を、父を見つめているのか。父は何を息子に伝えようとしているのか。400年の伝統を生きる、若きリーダーの姿を追う。
出演者:【ナレーション】 下村麻貴 協力:柿右衛門窯 九州陶磁文化館 有田町歴史民俗資料館
制作局:サガテレビ(STS)

2012年8月5日(日)
大災害時のリーダーシップ~沖縄で神様と呼ばれた男 十一代齋藤用之助~
100年前に沖縄に渡り、火山噴火で壊滅寸前の島民全員を救った佐賀県出身の行政マン・十一代齋藤用之助。今でも「神様」と呼ばれる「指導者のリーダーシップ」とは。
2011年3月11日。未曾有の震災と津波が東日本を襲い、原発のメルトダウンにより帰れる時期も定まらぬまま故郷を追われ、町全体が集団移転する被災者の苦しみが続いている。国のリーダーシップは迷走を続け、防災に対する国民の信頼が大きく揺らいでいる。今から100年以上も昔、沖縄でも大災害が起こった。硫黄鳥島の火山の噴火により壊滅の危機に陥った島民全員は、そっくりそのまま別の島へと移住した。電話も飛行機もない時代に、9か月という短期間のうちにひとりの犠牲者も出さず集団移転した。実はこの史実の陰に隠れた大きなリーダーがいた。その人物の名は、佐賀から沖縄に渡った島尻郡長・十一代齋藤用之助。今でも移住民の子孫たちは十一代を神様と呼ぶ。火山噴火により、故郷を捨てて移住することに戸惑う島民が入る中、用之助は多数決をとらず、移住に反対したり不安視する島民の意見を聞き、納得のいくまで話し合いを繰り返した。時は日露戦争直前という国難の中、政府から巨額の移住費補助をとりつけ、移住予定地には家も畑も確保した。家畜や家財道具のほか、墓や島民の心である御嶽まで移住させると提案した。その結果、島民大会において移住は全員一致で決定された。今年、108回目を迎える2月11日の久米島字鳥島移住記念祭。大恩人に感謝しその想いを子孫に引き継ぐために、地区では盛大にお祭りを行い続けている。大災害時のリーダーシップとは。
出演者:十四代齋藤用之助 糸数保(島長役)國吉弘志(書記収入役)國吉修(移住反対者代表役) 國吉美咲、仲村千夏(久米島西中学校在校生)小野まさ子(沖縄県教育委員会) 岸本弘人(沖縄県立博物館・美術館主任学芸員)久米島町字鳥島地区の皆さん 久米島町立久米島西中学校生徒の皆さん 國吉昌盛 木村雄一 國吉一成 國吉武 糸数夏子 糸数幸枝 仲宗根堅一 沖縄県那覇市の皆さん
制作局:サガテレビ(STS)

2012年3月25日(日)
大災害時のリーダーシップ ~沖縄で神様と呼ばれた男 十一代齋藤用之助~
【ヒージャー郡長・十一代齋藤用之助】
代々襲名を続けてきた齋藤家。その祖先は「葉隠」にも名前が残る旧佐賀藩士。用之助(本名・安一、1859-1933)が佐賀から沖縄へ渡ったのは1879(明治12)年のこと。初代沖縄県令(知事)が佐賀の肥前鹿島藩藩主であったため、多くの佐賀人が沖縄の県政を充実させるために海を渡った。
用之助はその中のひとりとして下級警察官で採用された。当時琉球王朝とその歴史・文化を明治政府に潰された沖縄県民は、本土からの為政者の仕事に対して冷たい視線を送っていた。そんな中、葉隠の心(死に物狂いで生きる)をモットーに、庶民目線で積極的にウチナンチュの中へ溶け込み尽くしていった用之助。その誠実な仕事ぶりは次第に沖縄の人々の心を捉え、1898年(明治31年)には那覇を含む沖縄本島の南半分と、離島の全てを管轄する島尻郡長という要職に就いた。行政トップに立った後も巡査で培った庶民感覚は失うことなく、沖縄の教育や産業の充実を強力に推し進め、郡民の支持を獲得していった。
【島民の「心」も移住。「多数決では決められない」】
1903(明治36)年4月。沖縄県の孤島・硫黄鳥島が大噴火し、700人近い島民が生命の危機に直面した。当時、十一代用之助は島民の意識調査をするが、多くの賛成のなかにも故郷を捨てて移住することに戸惑う島民もいた。そこで用之助は多数決をとらず、移住に反対したり不安視する島民ひとりひとりの意見を聞き、納得のいくまで話し合いを繰り返した。しかも、日露戦争直前という国難の中、政府から巨額の移住費補助をとりつけ、移住予定地の久米島には住む家も生活も確保した。強大な明治政府の下、島民の意志にかかわらず強制的に移住させることも可能だったこの時代にもかかわらず、家畜や家財道具のみならず、墓や島民の心である御嶽まで移住させると提案した。その結果、全ての条件を整えて開かれた島民大会において、移住は全員一致で決定された。
108回目を迎える今年2月11日の久米島字鳥島移住記念祭。大恩人に感謝し、その想いを子孫に引き継ぐために地区では盛大にお祭りを行った。【大災害時のトップのリーダーシップとは、そして沖縄と佐賀の新たな交流が…】
明治期に十一代齋藤用之助が示した「退路を断って住民の生命を守り抜く」というリーダーシップ。その功績は3.11を経験した現在の日本社会に、大きく問いかけている。
そして今年、十一代が大切にした「教育」を通じて沖縄と佐賀の交流が動きだした。
制作局:サガテレビ(STS)

2012年2月12日(日)
家族の絆でアパレル王へ
佐賀市唐人町に本社を置く県トップクラスアパレル企業「GATHER」の経営者、石丸良弘(53)。
アメリカ人の父と、日本人の母の息子として生まれた彼は、今まで父の顔は一度も見たことがない。見た目と名前の違うコンプレックスが、彼の思春期の心につきまとい、中学3年のとき最愛の母を亡くした石丸は、その後ろ盾を亡くし生活は荒れ放題、悪の道に入り込んでしまう。そして20歳の時、些細なことから暴力事件を起こし実刑を求刑され拘置所に勾置されてしまった。
そんな荒れた石丸の人生を大きく変えるきっかけが、将来妻になる和子の母の一言だった。母は刑務所に面会に出向き、「絶対に助けてあげる」との懸命の励ましだった。初めてかけられた他人からの優しい言葉。この言葉で石丸は、「人生を徹底的にやり直す」覚悟を決めた。これをきっかけに地元佐賀への感謝と、恩返しを深く心に誓った石丸は、その年に和子と結婚。ダンプの運転手として一心不乱に働き、一家を支えた。2年後に長女が誕生。同時期、佐賀北高校の通信制課程で学び高校卒業の単位も獲得した。生活は厳しかったが、夢があった。26歳で長男が誕生。5年間で全ての借金を返済した。
28歳になった石丸は、共にアパレル経験のない妻和子とふたりで、佐賀市唐人町にわずか8坪の店舗「GATHER」1号店を設立。当初売り上げゼロの状態から、夫婦ふたりの不眠不休の努力が実り、平成3年には初の本社ビルを建設した。しかし4年前、妻との悲しい別れが待っていた。拡大を続ける「GATHER」の秘訣。それは家族と社員の絆を大切にし、故郷への感謝を忘れない経営姿勢。石丸は今でも妻と二人でオープンさせた、佐賀市唐人町の本社を大切にしている。「GATHER」25周年を迎えた今、石丸がやりたいこと。それは夢を失い目的を見失って少年刑務所などに入所している青年たちに、自分の生き様を語ることだ。「こんな俺でもここまでやれた。」だから「『勇気』、『希望』、『夢』を持って再出発をしてもらいたい!」と。「今からでも遅くない!」と。
石丸のギャザーグループは、今年から世界企業を目指す。
制作局:サガテレビ(STS)
