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これまでの放送内容 -サガテレビ(STS)-

2011年10月30日(日)

呼子活きイカ応援団長 いざ東京へ!

佐賀県、呼子名物『ケンサキイカの活き造り』。 このケンサキイカは非常にデリケートな生き物で長距離輸送が難しく、味わうことができるのは、九州北部にほぼ限定されています。そのためイカが捕れすぎると余り漁獲高が増やせないため、イカ漁中心に生活を営む呼子の漁業者の収入安定は望めません。

この現状打破に立ち上がったのが、峯 治生〈みね はるお〉さん(59歳)。平成18年、当時唐津市役所に在籍した峯さんは『からつブランド推進課』課長として活きイカの東京への大量輸送を起案します。九州大学、地元唐津の企業などの協力を得ながら3年間の試行錯誤を重ね『活きイカの遠距離輸送技術』を成功させます。
その後、峯さんは役所内の人事異動の為しばしイカ搬送事業から離れることになりますが、イカの東京輸送をビジネスとして軌道に乗せたいという情熱に突き動かされ、役所を定年まであと1年半という時期に自主退職を決意。肩書を公務員から『呼子活きイカ応援団長』と変え、乗り込んだ築地市場でのセリ、そして東京近郊のスーパーでのイカ活き造りの実演販売等でも上々の評価を獲得します。手応えを感じた峯さんは、今年度、第3のステップとして『呼子活きイカ』の東京での販路開拓に乗り出します。これは総務省や経済産業省からの補助金を受けた事業にも取り上げられ、ビジネス化のためには具体的な成果を今年9月までに上げなければなりません。本年度、東京へのイカ搬送のチャンスは4回だけ。
はたして残された時間の中で、ビジネス化への展望を見出せるのか。呼子活きイカの美味しさを、東京の人へも届けたいと奮闘する峯さんを紹介します。

制作局サガテレビ(STS)

2011年10月16日(日)

家族の絆でアパレル王へ

佐賀市唐人町に本社を置く県トップクラスアパレル企業「GATHER」の経営者、石丸良弘(53)。

アメリカ人の父と、日本人の母の息子として生まれた彼は、今まで父の顔は一度も見たことがない。見た目と名前の違うコンプレックスが、彼の思春期の心につきまとい、中学3年のとき最愛の母を亡くした石丸は、その後ろ盾を亡くし生活は荒れ放題、悪の道に入り込んでしまう。そして20歳の時、些細なことから暴力事件を起こし実刑を求刑され拘置所に勾置されてしまった。

そんな荒れた石丸の人生を大きく変えるきっかけが、将来妻になる和子の母の一言だった。母は刑務所に面会に出向き、「絶対に助けてあげる」との懸命の励ましだった。初めてかけられた他人からの優しい言葉。この言葉で石丸は、「人生を徹底的にやり直す」覚悟を決めた。これをきっかけに地元佐賀への感謝と、恩返しを深く心に誓った石丸は、その年に和子と結婚。ダンプの運転手として一心不乱に働き、一家を支えた。2年後に長女が誕生。同時期、佐賀北高校の通信制課程で学び高校卒業の単位も獲得した。生活は厳しかったが、夢があった。26歳で長男が誕生。5年間で全ての借金を返済した。

28歳になった石丸は、共にアパレル経験のない妻和子とふたりで、佐賀市唐人町にわずか8坪の店舗「GATHER」1号店を設立。当初売り上げゼロの状態から、夫婦ふたりの不眠不休の努力が実り、平成3年には初の本社ビルを建設した。しかし4年前、妻との悲しい別れが待っていた。拡大を続ける「GATHER」の秘訣。それは家族と社員の絆を大切にし、故郷への感謝を忘れない経営姿勢。石丸は今でも妻と二人でオープンさせた、佐賀市唐人町の本社を大切にしている。「GATHER」25周年を迎えた今、石丸がやりたいこと。それは夢を失い目的を見失って少年刑務所などに入所している青年たちに、自分の生き様を語ることだ。「こんな俺でもここまでやれた。」だから「『勇気』、『希望』、『夢』を持って再出発をしてもらいたい!」と。「今からでも遅くない!」と。
石丸のギャザーグループは、今年から世界企業を目指す。

制作局サガテレビ(STS)

2011年7月31日(日)

呼子活きイカ応援団長 いざ東京へ!

佐賀県、呼子名物『ケンサキイカの活き造り』。 このケンサキイカは非常にデリケートな生き物で長距離輸送が難しく、味わうことができるのは、九州北部にほぼ限定されています。そのためイカが捕れすぎると余り漁獲高が増やせないため、イカ漁中心に生活を営む呼子の漁業者の収入安定は望めません。

この現状打破に立ち上がったのが、峯 治生〈みね はるお〉さん(59歳)。平成18年、当時唐津市役所に在籍した峯さんは『からつブランド推進課』課長として活きイカの東京への大量輸送を起案します。九州大学、地元唐津の企業などの協力を得ながら3年間の試行錯誤を重ね『活きイカの遠距離輸送技術』を成功させます。
その後、峯さんは役所内の人事異動の為しばしイカ搬送事業から離れることになりますが、イカの東京輸送をビジネスとして軌道に乗せたいという情熱に突き動かされ、役所を定年まであと1年半という時期に自主退職を決意。肩書を公務員から『呼子活きイカ応援団長』と変え、乗り込んだ築地市場でのセリ、そして東京近郊のスーパーでのイカ活き造りの実演販売等でも上々の評価を獲得します。手応えを感じた峯さんは、今年度、第3のステップとして『呼子活きイカ』の東京での販路開拓に乗り出します。これは総務省や経済産業省からの補助金を受けた事業にも取り上げられ、ビジネス化のためには具体的な成果を今年9月までに上げなければなりません。本年度、東京へのイカ搬送のチャンスは4回だけ。
はたして残された時間の中で、ビジネス化への展望を見出せるのか。呼子活きイカの美味しさを、東京の人へも届けたいと奮闘する峯さんを紹介します。

制作局サガテレビ(STS)

2011年2月6日(日)

エンヤー!親子5代唐津くんち物語

唐津市木綿(きわた)町で、代々自転車屋を営んできた正田諒一郎さん(72)。息子でバイク屋を営む俊輔さん(46)。「生活の全てはくんち」と、自他共に認める親子だ。正田家の祖先は唐津藩の刀鍛冶師。

自転車屋は明治39(1906)年に初代松太郎が創業した100年の歴史ある老舗自転車屋。

木綿町の自慢は元冶元年(1864)に町民の寄付で製作された、唐津くんち九番曳山(やま)・武田信玄の兜。その兜、今年26年ぶりに5回目の塗り替えを行った。しかも唐津で行うのも半世紀ぶり。町民の関心は更に深まった。栄えある塗替実行委員長に推された正田諒一郎さん。親子が中心となり、2月7日(日)の曳山解体から作業はスタートした。

4月。諒一郎さんを突然襲った脳梗塞。夏まで塗り替え作業には顔を出せず、無念がる諒一郎さん。息子がその代わりを務めながら、塗り替えは続いていった。
10月。脅威の回復を成し遂げた諒一郎さんとともに、曳山は見事塗り替え終了。そして兜の裏側には、正田家5代の名前が記された。「兜に名を残す」それはまさに唐津っ子の誉。

11月。いよいよ唐津くんちの3日間が始まった。そこには塗り替えが終わった真新しい曳山を誇らしげに曳く正田一家の姿があった。今年から木綿町の曳山組織に入会した長男・信太郎さん(19)は、唐津っ子の憧れ「曳山の上(やまんうえ)」で初めて采配を振ることに。驚く長男と喜ぶ家族。そして最終日。唐津っ子の心をたぎらせる「エンヤー」の掛け声と共に曳山が展示場に収納される時、曳き子たちは男泣きする。「くんちを引き継ぐこと。それは町を引き継ぐこと」。番組は、先祖代々唐津くんち一筋に生きてきた正田一家を中心に、木綿町町民の武田信玄の兜にかける想いを伝える。

制作局サガテレビ(STS)

2010年12月19日(日)

エンヤー!親子5代唐津くんち物語

唐津市木綿(きわた)町で、代々自転車屋を営んできた正田諒一郎さん(72)。息子でバイク屋を営む俊輔さん(46)。「生活の全てはくんち」と、自他共に認める親子だ。正田家の祖先は唐津藩の刀鍛冶師。

自転車屋は明治39(1906)年に初代松太郎が創業した100年の歴史ある老舗自転車屋。

木綿町の自慢は元冶元年(1864)に町民の寄付で製作された、唐津くんち九番曳山(やま)・武田信玄の兜。その兜、今年26年ぶりに5回目の塗り替えを行った。しかも唐津で行うのも半世紀ぶり。町民の関心は更に深まった。栄えある塗替実行委員長に推された正田諒一郎さん。親子が中心となり、2月7日(日)の曳山解体から作業はスタートした。

4月。諒一郎さんを突然襲った脳梗塞。夏まで塗り替え作業には顔を出せず、無念がる諒一郎さん。息子がその代わりを務めながら、塗り替えは続いていった。
10月。脅威の回復を成し遂げた諒一郎さんとともに、曳山は見事塗り替え終了。そして兜の裏側には、正田家5代の名前が記された。「兜に名を残す」それはまさに唐津っ子の誉。

11月。いよいよ唐津くんちの3日間が始まった。そこには塗り替えが終わった真新しい曳山を誇らしげに曳く正田一家の姿があった。今年から木綿町の曳山組織に入会した長男・信太郎さん(19)は、唐津っ子の憧れ「曳山の上(やまんうえ)」で初めて采配を振ることに。驚く長男と喜ぶ家族。そして最終日。唐津っ子の心をたぎらせる「エンヤー」の掛け声と共に曳山が展示場に収納される時、曳き子たちは男泣きする。「くんちを引き継ぐこと。それは町を引き継ぐこと」。番組は、先祖代々唐津くんち一筋に生きてきた正田一家を中心に、木綿町町民の武田信玄の兜にかける想いを伝える。

制作局サガテレビ(STS)

次回放送内容

OA:2025.03.16(日)

大分県由布市に佇む「えてふぇて」は看護師夫婦が営む飲食店。のどかな町に集いの拠点が誕生したのは2021年のこと。 2人は看護師として働く中で、入退院を繰り返す人や病状が悪化するまで受診ができない人を救えないかと考えていた。そんな時に出会った「コミュニティナース」という在り方。まちの中に飛び出し、コミュニティを構築して地域ぐるみで健康的なまちを作る。自分たちのやりたいことにぴったりだった。病院勤務を辞め、地域を結ぶための活動を次々と企画。手探りながらも、協力者や理解者が増えていき、その輪は次第に広がっていく…。「コミュニティナース」という新たな生き方を選択した看護師夫婦の奮闘を追った。

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