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これまでの放送内容 -2010年-

2010年6月26日(土)

73歳 白球を追う ~夢はチームメートと共に~

鳥栖市の鎌田勝子さん73歳。 ソフトボールのクラブチーム「鳥栖エンジェルス」の監督である。

就任早々の2007年には、佐賀県チャンピオンに導いた。鎌田さんの球歴、それは女子野球で始まる。

1950年代から70年代にかけ、西日本を代表する強豪として名を馳せた社会人の女子野球部に在籍。強肩強打の中心選手として活躍すると共に、キャプテンとしてもチームを引っ張り、日本選手権で5年連続優勝という金字塔を打建てた。女子野球からソフトボールへ、鎌田さんは還暦を過ぎるまでエンジェルスで現役を務めた。引退後、当時のキャプテンから監督就任を懇願される。その熱意に負け、指導者としてグラウンドに残ることになった。

制作局テレビ熊本(TKU)

2010年6月20日(日)

再び桜の咲く頃に ~農業研修生たちが学んだ1年間~

農業の担い手不足対策が急務な中、熊本独自のJA農業インターン事業で今年は約40人が新規就農を目指し研修を受けています。

しかし研修生は不況の影響でリストラにあった派遣従業員はじめ、年齢も経歴も様々、そんな研修生を見守るのが指導員の内田敬助さん61歳です。

全くの素人が就農を目指す難しさ、途中4人の辞退者も出る中、春からの就農を目指し奔走する指導員内田さんと、研修生たち、そして、研修生を受け入れている農家の1年間を追いました。

制作局サガテレビ(STS)

2010年6月13日(日)

世界中まわってもここが一番 ~ふるさと・限界集落の灯が消える日~

2008年の春(3/12)鹿児島県が行った集落状況調査の結果“今後10年以内に45集落が消滅の可能性がある”と市町村が回答。

さらに65歳以上が50%以上を占め集落機能維持が困難な状況に置かれている、いわゆる限界集落は258集落ある。

薩摩川内市東郷町藤川の標高500~600メートルにある津田集落。車がやっと1台通るほどの道を上っていくと朽ち果てた家々が目にとまる。戦前戦後から林業が盛んな時代には38世帯150人あまりが暮らしていたが、今は3世帯5人が暮らす限界集落だ。2年半前の春、そこで暮らす津田キリさん(80)に会った。キリさんは津田集落で生まれ、集落の男性と結婚、80年間すごしてきた。何故今までこの集落で暮らしたのかキリさんに聞いてみると「世界中まわってもここが一番良い、どこを回っても我が家はありません」と答えた。山の暮らしは楽ではない。シカ、イノシシなどの被害、飲み水、と苦労はするが、やはりふるさとが良いのだ。

キリさんは3週間に一度歩いて病院に通っていた。山を下るとき50分、帰りの上がりは1時間30分かけて通院していた。取材し始めてから2年目、腰と目の病気が悪化し一人で通えなくなり、そして去年の11月の末に、81年間暮らしたふるさとを離れたのだった。番組では、津田キリさんと出会ったその日から森の恵みを受けて暮らす山の村の2年3ヶ月を追う。

制作局鹿児島テレビ放送(KTS)

2010年6月6日(日)

湯の町別府のプリンセス

日本を代表する湯の町、別府。観光地、別府が低迷する傾向にある中、夜な夜な光り輝く場所がある。

別府温泉の象徴竹瓦(たけがわら)温泉のすぐそばにあって、アメリカのオールディーズやGSなどの生演奏ステージが毎夜繰り広げられる店、ヒットパレードクラブだ。22年前に、若者や女性が安心して楽しめる場所を、とオープンさせた故オーナーの心を全員で受け継ぎ、いまや別府に無くてはならないものとなった「ヒッパレ」。スタッフ、バンドのメンバーらのパワーとアイデアでファン層を拡大し、県内外から多くのファンが訪れている。

ここでステージに立つバンド「ヒットパレーダース」の唯一の女性ヴォーカル、相良安有美(さがら あゆみ)さん(24)。明るく楽しくステージを務める彼女の思いはただひとつ、別府を訪れる人々に楽しい思い出を作ってもらいたい、温泉とは別の思い出も持って帰ってもらいたいということ。こうして今夜もまた湯の町別府のプリンセスは60年代のドレスをまとってステージに立つ。

制作局テレビ大分(TOS)

2010年5月30日(日)

ブラジル番長 ~アマゾン取材日記~

福岡市内にちょっと変わった新聞記者がいる。しかも、ブラジルの新聞社の記者なのだ。

彼の名は、吉永拓哉。中学時代はいわゆるヤンキー。福岡市内を二分する暴走族の副総長だった。イケイケの彼を待っていたのは…バイクでの暴走、シンナー、覚せい剤乱用の果ての少年院送りだった。そんな彼は、ある日を境にヤンキーの世界から足抜けせざるを得なくなるのだ。
なぜなら…少年院を退所する条件が…一人、南米に送られることだったからだ。

体ひとつで、エクアドル、ペルー、アルゼンチン、ブラジル…南米を放浪。その自由でおおらかな気風に触れ、体ひとつで南米で生活をしていくうちに、吉永さんは次第に自分と同じように 南米に根付いて暮らす日系移民に関心が向かうようになった。

その後、ブラジルの新聞社「サンパウロ新聞社」にもぐり込み、持ち前のヤンキー根性で厚かましく、そして雑草魂で、自分の居場所を見つけていったのだ。そして、少年が大人の男になっていった。

彼の目標は…今、出来るだけ多くの日系移民の貴重な証言を拾い集めに行くこと。アマゾンの奥地に…自分たちの新聞を心待ちにしてくれている人たちがいる。そんな人達から多くの証言を集め、今の日本人が忘れ去ろうとしている「礼節」「助け合い」「気概」などの精神を開拓者たちの生き様を通して訴えようとしている。企画では…日本で「サンパウロ新聞社」の記者としての活動ぶりやボランティアとして少年院などでの講演活動、そして、ブラジルのサンパウロ新聞社での記者としての活動ぶりを追いかけて生きたい。

なぜ…日系移民そして、ブラジルにこだわるのか?日系移民から何を学ぼうとしているのか?密着取材で掘り下げていきたい。

制作局テレビ西日本(TNC)

次回放送内容

OA:2024.11.24(日)

八代市坂本町の鮎帰(あゆがえり)地区にある日光(にちこう)棚田。標高420メートル、里山に囲まれ階段状に連なる田畑の景色はどこか懐かしく安らぎを覚えます。1999年『日本の棚田百選』にも選ばれました。しかし、今は過疎化と相次ぐ離農で耕作放棄地が目立ち、田んぼは畑に切り替わり棚田の風情は過去のものとなろうとしています。この日光棚田で僅かに残った数枚の田んぼで唯一米作りに取り組んでいるのが、野口修さんです。年齢は87歳、農業の経験も無ければ地主でもありません。 野口さんは、2016年広島から坂本町に単身移住、79歳の時でした。数年後日光棚田に出会います。それは素人目線の安易な発想だったかもしれません。廃れていく棚田に想いを募らせ景観を維持できないかと…、野口さんは2020年元米農家の田んぼを借りて米作りを始めます。春は田起こし、苗ができれば田植え、収穫の秋まで水の管理や田の草取り、厄介なシカの防除に至るまで片時も目が離せません。野口さんは苦労をものともせず、四度目の秋を迎えることができました。 野口さんは収穫の喜びとは別に、新たな目標に向かって歩き出していました。本人曰く“僧侶”になると、坂本町へ移住を世話してくれたお寺の住職の力になければと話します。住職の体調を案じた末の決断でした。僧侶の資格を取るため、野口さんはこれまで通信教育でお寺の宗派に関する作法やお経を学んできました。最終課程は京都、得度(とくど)習礼(しゅらい)と呼ばれる修行に入ります。 80歳を目前に単身移住。棚田の景観を守ろうと挑む米作り。そして、今度は僧侶になろうと一念発起。野口さんは、鮎帰の里に新しい風を起こそうとする革命児なのかも!? 何が自身をそうさせるのか!?世の中を憂い立ち上がった青春期に答えは有るようです。 荊(いばら)の道を怯まず自らを進化させ続ける野口さんは間もなく米寿。人生100年時代を迎え、余生を謳歌する今はまだ旅の途中かも知れません。番組では、自らの信念と向き合う野口さんが何を求め何処へ向かおうとしているのか、終の棲み家に選んだ里の日々を追います。

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