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これまでの放送内容 -テレビ宮崎(UMK)-

2012年1月22日(日)

TATSUYA KAWAGOE ~今だから出来る仕返し~

東京・代官山にある2ヶ月先まで予約でいっぱいの人気店、「TATSUYA KAWAGOE」。オーナーシェフは宮崎県国富町出身の料理人・川越達也。

自身の店を構えながら、様々なプロデュース商品の監修や、オリジナルのキッチン用品の開発まで、その活動は幅広い。フードコーディネーター、料理講師として、トークショーやテレビ番組にも引っ張りだこの新時代の料理人。そんな彼は故郷・宮崎に対してあまり良い思いを抱いていない。自分の意見を認めてもらえない、閉鎖的な環境が原因だった。

しかし、良くも悪くも故郷という存在が今の自分の作り上げたと考える彼は、故郷を離れて20年経った今、宮崎に帰ってくる決意をした。これまで店舗展開をしなかったTATSUYA KAWAGOEを宮崎にオープンさせるというのだ。「良く言えば恩返し。悪く言えば仕返し。」

料理人・川越達也が故郷・宮崎に仕掛けた粋な仕返し。今をときめくカリスマイケメンシェフの素顔に迫るヒューマンドキュメンタリー。

制作局テレビ宮崎(UMK)

2011年12月25日(日)

ピーマン農家 DJ JOE

1973年、宮崎市の片田舎にあるピーマン農家に1人の男が誕生した

彼の名は「日髙陽一」

将来の夢は「プロ野球選手」朝から夕方まで野球にあけくれ、たまに近所の英語塾で勉強したりもした
3兄弟の長男として真面目に育った彼はなんとか無事に地元の高校を卒業し両親は実家のピーマン農家を継いでくれるものとばかり思っていた
ところが「農業なんか格好悪くてやってられるか」「大金持ちになってデカい車に乗ってブロンドの美女をはべらせてやる」彼はアメリカンドリームを求めて渡米した

渡米した彼はサウスダコタの大学に4年間通いロスでツアコンや通訳として4年間勤め沢山の異国人と、また異国にいる邦人と触れ合ううちにあることに気付いた「金持ちイコール幸せじゃない」
そして海外での農業従事者の世間的ステイタスの高さに驚いた
そのとき、彼の人生は変わった
「宮崎に帰って農家を継ごう」「日本の農業の価値を変えてやろう」28歳で帰郷した彼は実家のピーマン農家を継ぎ、まもなく10年が経とうとしている
農業に従事するかたわら、軟式野球連盟の理事や、地元消防団員
地区の評議会委員などを務め、さらには地元の神社の氏子として神楽まで舞ってしまう
いくつもの顔を持つ「エンターテイナー ピーマン農家」
2年ほど前にはラジオDJも始め担当する番組では地元の若手農家をゲストに招き「農業のステイタス向上」に努めている

しかし彼は今後一体どこへ向かっていくのか?

制作局テレビ宮崎(UMK)

2011年12月4日(日)

開店!!居酒屋診療所 店長は町のお医者さん

宮崎県の北部、延岡市。 人口の約3割が65歳以上と高齢化がすすみ、公立病院で医師の数が足りず休診科が出るなど深刻な医師不足問題も抱えている。

そんな街に昨年誕生した「大貫診療所」。院長で唯一の医師、榎本雄介さん(37)は「街を元気に。住む人を幸せに」という目標の元、医療以外の面でも地域活性化のために駆け回る日々。その活動の一つが、診療所の2階で月一回開催する「診療所居酒屋」。院長から店長へと変身し、地域住民との交流の場として一年半続けている。「徹底した地域密着医療」を目指す青年医師の姿を追った。

制作局テレビ宮崎(UMK)

2011年9月25日(日)

おしゃべりピアノ ~広汎性発達障がいのピアニスト~

広汎性発達障がいをという障がいを抱えているピアニスト・野田あすかさん。 「広汎性発達障がい」とは社会性やコミュニケーション能力といった基本的な機能の発達が遅れてしまう先天性の障がい。

「自己中心的」「何を考えているのか分からない」という印象を与えてしまうため、周りから障がいとして理解されないことも多いと言われています。
「わたしはおしゃべりが苦手だからピアノでおはなしするの。」
多くの人に言葉ではなくピアノで自分のメッセージを伝えたいと語る彼女の夢は、これまで障がいが原因で開くことのできなかったソロリサイタルでした。

制作局テレビ宮崎(UMK)

2011年9月4日(日)

ピーマン農家 DJ JOE

1973年、宮崎市の片田舎にあるピーマン農家に1人の男が誕生した

彼の名は「日髙陽一」

将来の夢は「プロ野球選手」朝から夕方まで野球にあけくれ、たまに近所の英語塾で勉強したりもした
3兄弟の長男として真面目に育った彼はなんとか無事に地元の高校を卒業し両親は実家のピーマン農家を継いでくれるものとばかり思っていた
ところが「農業なんか格好悪くてやってられるか」「大金持ちになってデカい車に乗ってブロンドの美女をはべらせてやる」彼はアメリカンドリームを求めて渡米した

渡米した彼はサウスダコタの大学に4年間通いロスでツアコンや通訳として4年間勤め沢山の異国人と、また異国にいる邦人と触れ合ううちにあることに気付いた「金持ちイコール幸せじゃない」
そして海外での農業従事者の世間的ステイタスの高さに驚いた
そのとき、彼の人生は変わった
「宮崎に帰って農家を継ごう」「日本の農業の価値を変えてやろう」28歳で帰郷した彼は実家のピーマン農家を継ぎ、まもなく10年が経とうとしている
農業に従事するかたわら、軟式野球連盟の理事や、地元消防団員
地区の評議会委員などを務め、さらには地元の神社の氏子として神楽まで舞ってしまう
いくつもの顔を持つ「エンターテイナー ピーマン農家」
2年ほど前にはラジオDJも始め担当する番組では地元の若手農家をゲストに招き「農業のステイタス向上」に努めている

しかし彼は今後一体どこへ向かっていくのか?

制作局テレビ宮崎(UMK)

次回放送内容

OA:2025.11.09(日)

「自分の障害を受け入れて、もう1つの陸上競技に挑戦」パラ陸上・十川裕次選手が走る理由とは?。 大分市出身の十川裕次選手はパラ陸上1500mで活躍するアスリート。パラリンピックには東京・パリと2大会連続で日の丸を背負い、世界の舞台を駆けぬけた。小学校のときから野球を続けていたが、あることをきっかけに陸上の道へ。強豪駅伝部として知られる大分東明高校時代には全国高校駅伝で花の一区も任された経歴を持つ。ただ、これまでの道のりは決して平たんなものでなかった。3歳のときに軽度の知的障害が判明。周りと比べると物事を理解することが困難な場合や、そのスピードが遅いこともある。「どうしてぼくを障害に生んだの?」やり場のない怒りを両親にぶつけることもあった。そんな失意の中で出会ったパラ陸上が十川選手に「走る理由」を与えてくれた。世界への舞台へと挑戦を続ける十川選手の日々を追った。

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