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これまでの放送内容 -2012年-

2012年8月12日(日)

リングで伝える~57歳オヤジボクサーの闘い~

57歳のオヤジボクサー。警察官でありながら現役のアマチュアボクサーを続ける松永悟さん。2年半ぶりにリングにあがる理由、それは家族でした。

ボクシングに打ち込むことでガンを克服したオヤジボクサー、松永悟さん。57歳。現役の警察官であるととも、長崎県佐世保市でボクシングジムの会長をしています。4年前、松永さんは余命半年とも言われる中、第一線を退いたボクシングの選手たちが出場する『ザ・おやじファイト』で、フェザー級のチャンピオンに。その後、二度の防衛に成功後、ボクシングを引退しましたが、2年半ぶりに再びリングにあがる決意をしました。次は家族のためです。

出演者:松永悟さん ほか

制作局テレビ長崎(KTN)

2012年8月5日(日)

大災害時のリーダーシップ~沖縄で神様と呼ばれた男 十一代齋藤用之助~

100年前に沖縄に渡り、火山噴火で壊滅寸前の島民全員を救った佐賀県出身の行政マン・十一代齋藤用之助。今でも「神様」と呼ばれる「指導者のリーダーシップ」とは。

2011年3月11日。未曾有の震災と津波が東日本を襲い、原発のメルトダウンにより帰れる時期も定まらぬまま故郷を追われ、町全体が集団移転する被災者の苦しみが続いている。国のリーダーシップは迷走を続け、防災に対する国民の信頼が大きく揺らいでいる。今から100年以上も昔、沖縄でも大災害が起こった。硫黄鳥島の火山の噴火により壊滅の危機に陥った島民全員は、そっくりそのまま別の島へと移住した。電話も飛行機もない時代に、9か月という短期間のうちにひとりの犠牲者も出さず集団移転した。実はこの史実の陰に隠れた大きなリーダーがいた。その人物の名は、佐賀から沖縄に渡った島尻郡長・十一代齋藤用之助。今でも移住民の子孫たちは十一代を神様と呼ぶ。火山噴火により、故郷を捨てて移住することに戸惑う島民が入る中、用之助は多数決をとらず、移住に反対したり不安視する島民の意見を聞き、納得のいくまで話し合いを繰り返した。時は日露戦争直前という国難の中、政府から巨額の移住費補助をとりつけ、移住予定地には家も畑も確保した。家畜や家財道具のほか、墓や島民の心である御嶽まで移住させると提案した。その結果、島民大会において移住は全員一致で決定された。今年、108回目を迎える2月11日の久米島字鳥島移住記念祭。大恩人に感謝しその想いを子孫に引き継ぐために、地区では盛大にお祭りを行い続けている。大災害時のリーダーシップとは。

出演者:十四代齋藤用之助 糸数保(島長役)國吉弘志(書記収入役)國吉修(移住反対者代表役) 國吉美咲、仲村千夏(久米島西中学校在校生)小野まさ子(沖縄県教育委員会) 岸本弘人(沖縄県立博物館・美術館主任学芸員)久米島町字鳥島地区の皆さん 久米島町立久米島西中学校生徒の皆さん  國吉昌盛 木村雄一 國吉一成 國吉武 糸数夏子 糸数幸枝 仲宗根堅一 沖縄県那覇市の皆さん

制作局サガテレビ(STS)

2012年7月29日(日)

沖縄を返せ

日本への復帰を目指す沖縄で、熱狂的に歌われた歌「沖縄を返せ」。その伝説の歌の背景を探っていくと、日本と沖縄の複雑な関係と「復帰」の真の姿が見えてきた。

日本への復帰を目指す沖縄で、熱狂的に歌われた歌がありました。「沖縄を返せ」。その伝説の歌は、「復帰運動」という時代のうねりの中で、人々の思いをひとつに束ねる、そんな強い力をもっていました。40年前、その歌と共に、悲願の本土復帰を果たした沖縄。しかし、それは望んでいた「復帰」ではなかったのです。復帰後の沖縄では、あれほど人々から愛された「沖縄を返せ」は、急に歌われなくなり、時の彼方へと消え去ってしまいました。なぜあの歌は、あんなにも熱烈に愛され、憎まれたのか…。そして「沖縄を返せ」が生まれた背景を探っていくと、日本と沖縄の複雑に交差する想いと、「復帰」の真の姿が見えてきたのです。

出演者:【構成・演出】 山里孫存 【取材】 沖縄テレビ報道部「復帰を知る」取材班 【プロデューサー】 山里孫存 (沖縄テレビ) 正木伸一郎(テレビ西日本)

制作局沖縄テレビ放送(OTV)

2012年7月21日(土)

川に生かされ~八郎さんが見つめたふるさと~

球磨郡球磨村楮木地区は近くに橋がない。川の向こう岸までを結ぶ唯一の手段は、渡し舟。住民のために毎日川辺でお客さんを待つ求广川八郎さんの生活を追った。

球磨郡球磨村楮木地区。球磨川沿いの山間に9世帯20人が住む小さな地域がある。この地に生まれてから84年間ふるさとを見つめてきた求广川八郎さん。近くに橋がない梶木地区では川の向こう岸の駅までを結ぶ唯一の手段が渡し舟。八郎さんは病院通いのお年寄りや買い物客の為に一日川辺の小さな小屋でお客さんを待つ。かつては1日何十人も渡したという八郎さんの渡し舟だが今は1日2人から3人、1人もいない日もある。撤去が決まった下流のダムが放水を始め、満々と水をたたえていた球磨川の水位も大きく低下した。80歳を超えた八郎さんを気遣う妻のハルコさん。後を引き継ぐ人が見つからない中で「自分がしないと・・」とぽつりとこぼす八郎さん。今日も小屋の中から1時間に1本の列車の到着を気にかける。そんな故郷の生活を支える八郎さんの生活を見つめた。

出演者:求广川八郎 求广川ハルコ 【ナレーション】 寺田菜々海(TKUアナウンサー)

制作局テレビ熊本(TKU)

2012年7月15日(日)

走れ!夢に向かって~車いすバスケットボールでつながる絆~

様々な過去を乗り越えて立ち上がり、車いすバスケと出会った選手たち。車いすバスケットボールにかける思い、チームの絆、そして彼らを支える人々の姿を追った。

 攻守の際、車イスで激しくぶつかりあうことから「コート上の格闘技」とも言われる「車いすバスケットボール」。鹿児島にその車いすバスケットボールに真剣にり組む人々がいる。チーム名は「薩摩ぼっけもん」。「ぼっけもん」とは鹿児島の方言で「やんちゃ坊主」という意味。9年前のチーム創立当初なかなか試合で勝つことができなかった薩摩ぼっけもん。地道に練習を積み重ね、少しずつ勝利をつかんできた。チームの最終目標は、東京で開かれる日本車椅子バスケットボール選手権大会への出場。様々な理由でハンディキャップを負いながらも立ち上がり車いすバスケと出会った選手たち。夢を追い続けるチーム、彼らの車いすバスケットボールにかける思い、チームの絆、そのまわりで彼らを支える人々の姿を追った。

出演者:ナレーター:坪内一樹(KTSアナウンサー)

制作局鹿児島テレビ放送(KTS)

次回放送内容

OA:2024.11.24(日)

八代市坂本町の鮎帰(あゆがえり)地区にある日光(にちこう)棚田。標高420メートル、里山に囲まれ階段状に連なる田畑の景色はどこか懐かしく安らぎを覚えます。1999年『日本の棚田百選』にも選ばれました。しかし、今は過疎化と相次ぐ離農で耕作放棄地が目立ち、田んぼは畑に切り替わり棚田の風情は過去のものとなろうとしています。この日光棚田で僅かに残った数枚の田んぼで唯一米作りに取り組んでいるのが、野口修さんです。年齢は87歳、農業の経験も無ければ地主でもありません。 野口さんは、2016年広島から坂本町に単身移住、79歳の時でした。数年後日光棚田に出会います。それは素人目線の安易な発想だったかもしれません。廃れていく棚田に想いを募らせ景観を維持できないかと…、野口さんは2020年元米農家の田んぼを借りて米作りを始めます。春は田起こし、苗ができれば田植え、収穫の秋まで水の管理や田の草取り、厄介なシカの防除に至るまで片時も目が離せません。野口さんは苦労をものともせず、四度目の秋を迎えることができました。 野口さんは収穫の喜びとは別に、新たな目標に向かって歩き出していました。本人曰く“僧侶”になると、坂本町へ移住を世話してくれたお寺の住職の力になければと話します。住職の体調を案じた末の決断でした。僧侶の資格を取るため、野口さんはこれまで通信教育でお寺の宗派に関する作法やお経を学んできました。最終課程は京都、得度(とくど)習礼(しゅらい)と呼ばれる修行に入ります。 80歳を目前に単身移住。棚田の景観を守ろうと挑む米作り。そして、今度は僧侶になろうと一念発起。野口さんは、鮎帰の里に新しい風を起こそうとする革命児なのかも!? 何が自身をそうさせるのか!?世の中を憂い立ち上がった青春期に答えは有るようです。 荊(いばら)の道を怯まず自らを進化させ続ける野口さんは間もなく米寿。人生100年時代を迎え、余生を謳歌する今はまだ旅の途中かも知れません。番組では、自らの信念と向き合う野口さんが何を求め何処へ向かおうとしているのか、終の棲み家に選んだ里の日々を追います。

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