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これまでの放送内容 -2017年-

2017年4月16日(日)

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幸服の魔法~デザイナー鶴丸礼子~

大分県在住の服飾デザイナー鶴丸礼子さん。鶴丸さんの作る服は、障がいのある方や高齢者の方など多くの人を明るく前向きにしてきた。そんな鶴丸さんに1年半にわたり密着。

「鶴丸さんが作る服を着ると幸せな気持ちになれる。人生が変わった」
大分県在住の服飾デザイナー「鶴丸礼子」さん。障がい者や高齢者のためのオーダーメイドの服を作り続け20年以上になる。身体の46か所を採寸することで体型にぴったりの原型を一度に製図することができる“鶴丸式製図法”を考案し、それぞれの障がいに合わせた機能性と、美しいデザイン性を兼ね備えた服をこれまで作り続けてきた。そして障がい者がモデルとして登場するファッションショーを開催し、今年3月には写真集も世界に向けて出版した。
その中でモデルとなった視覚障がいの女性は「自分に自信が持てた!」と新たにメイクの勉強を始めた。窮屈な既製品の服を当たり前だと思って着ていた車椅子の女性は、オーダーメイドのドレスを着て「裸みたいに楽!」と喜んだ。そしてファッションショーでは憧れのウエディングドレスを着て、キラキラした笑顔でランウェイに登場した。こうしてみんなが前向きに人生を歩き始めた。そんな鶴丸さんを1年半にわたり追ったドキュメンタリー。

出演者:服飾デザイナー 鶴丸礼子さん 【ナレーター】 御手洗慶子

制作局テレビ大分(TOS)

2017年4月9日(日)

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追憶の部屋~戦地からの便り~

大刀洗平和記念館の「追憶の部屋」と呼ばれる遺影コーナーに米兵の写真が飾られている。遺族たちは一様に、戦地から送られてきた手紙を大切に保管していた。

のどかな田園が広がる福岡県大刀洗町。かつてこの地には“東洋一”と謳われた旧陸軍大刀洗飛行場があった。ここには航空隊の若い兵士や教官をはじめ、勤労動員の学生や女子挺身隊など、多くの若者たちが勤務し、働いていた。
太平洋戦争末期、この地はB29の爆撃にさらされた。6回におよぶ空襲で、飛行場は壊滅的な被害を受けた。現在、飛行場の跡地にたつ筑前町立大刀洗平和記念館。ここでは、大刀洗飛行場に関わった戦没者たちの記録と記憶を今に伝えている。その館内の一画、「追憶の部屋」と呼ばれる遺影コーナーに米兵の写真が飾られている。
遺影の人物の遺族に会うためアメリカを訪れ、インタビューを敢行。遺族たちは一様に、戦地から送られてきた手紙を大切に保管していた。戦後71年、海の向こうにも家族を失った人たちの悲しみがあった。

制作局テレビ西日本(TNC)

2017年4月2日(日)

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母を越える日~水上のなでしこレーサー物語~

ボートレース界に史上初の母娘対決が実現!大先輩である母親、まだまだ未熟な若手である娘。親子関係とライバル関係の中で揺れ動く、母・娘の思いを描く

最高時速80キロのスピードで競い合う「水上の格闘技」・・・ボートレース。
そのボートレース界に史上初の図式が、昨春誕生した。母はレーサー28年目の大山博美さん、娘はレーサー2年目の大山千広さん。男性レーサーに混じってレースをして勝ってくる母に憧れ、小学校の頃から「ボートレーサーになりたい!」と思い続けた娘・千広さんは親元を離れ、ボートレーサー養成訓練施設「やまと学校」で1年間寮生活をすることに。高校時代陸上のキャプテンとして、自らは七種競技の選手として体力には自身があった千広さんだったが、やまと学校2ヶ月目に壁にぶつかる。「やめたい・・・」電話で娘の弱音を聞いた母・博美は、娘に手紙を書いた。「私と一緒に走ってください」娘・千広は、それから気持ちを切り替え、メキメキと頭角を現し、晴れてボートレーサーに。福岡・ボートレース若松で、二人にとって忘れられないレースがあった。
2016年5月1日、母娘3度目の対決が実現!一番人気の白1号艇の母「大山博美」、青4号艇の娘「大山千広」。過去の2レースは、母が先着、娘は母の背中を必死に追いかける展開。
そして迎えた3度目の対決の結末は・・・?母であり大先輩である博美、娘でありまだまだ未熟な若手である千広。
親子関係とライバル関係の中で揺れ動く、母・娘の思いを描く

出演者:【ナレーター】 橋本真衣(テレビ西日本)

制作局テレビ西日本(TNC)

2017年3月26日(日)

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凪ぎに輝く

長崎県東彼杵郡東彼杵町。お茶の産地として知られるこの町に、3年前地域おこし協力隊として県外からやってきたのは堀越一孝さん。

長崎県東彼杵郡東彼杵町。お茶の産地として知られるこの町に、3年前地域おこし協力隊として県外からやってきたのは堀越一孝さん。サラリーマンからの転職で、町を元気にすることを仕事にしたいと考えていました。
東彼杵町にある千綿駅は長い間、無人駅でしたが、独特の雰囲気とホームに出ると海が広がる立地に驚き、堀越さんはカフェUMIHICOをオープン。この場所を拠点に町の活性化に取り組んできました。
県外からもこの場所を目当てに来るお客さんも増え、東彼杵町を知ってもらうきっかけになってきましたが、堀越さんは自分の3年間の任期とともに、店を閉める決断をします。その理由とはなんなのか。
小さな町にやってきた移住者が考えた町の活性化。その活動と葛藤を見つめます。

出演者:【ナレーション】 川波美幸( テレビ長崎アナウンサー)

制作局テレビ長崎(KTN)

2017年3月19日(日)

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小さな島のリストランテ~27歳のおもてなし~

人口55人!佐賀・唐津の離島松島に開店した小さなイタリアンレストランの極上のおもてなし!!

佐賀県唐津市にある周囲4Kmに満たない小さな島・松島。この島に小さなイタリアンレストランがある。シェフの宗勇人(27歳)さんは「少しでも島のためになれば」と開店したと言う。人口55人が暮らす松島では、素潜りで魚介類を獲る「海士漁」を行う。島には信号もなければコンビニもないが、勇人さんは「不便と感じたことはない。何もないのが当たり前だから」と笑う。松島生まれの勇人さんは「料理人になったら、父が獲った魚を使って仕事ができる」と、調理科のある高校に進学。その後、佐賀と福岡で修業し、料理人としての腕を磨いた。島のイベント「1日限定レストラン」が好評だったことから、島での起業を決意した。松島へは呼子港から15分、1日3往復しかない定期船で渡るしかない。「こんな小さな何もない島に、お客さんが来るわけがない」と父は、開店に反対。しかし多くの客が訪れ、今は「思い切りやってもらいたい」とエールを送る。順調だったレストランは、冬場になると客足が落ちる。冬の玄界灘は時化の日が多いからだ。落ち込む勇人さんに父は「春になれば、お客さんは来てくれる」と励まし、勇人さんは海士の修業を始めた。父の指導を受け、今ではサザエやアワビなどの食材を自ら調達する。「魚がいっぱい獲れたから、食べる?」と気さくに声をかけてくれる島の人たちとの間合いが「大好き」という勇人さん。今日も厨房に立ち、自分流の「おもてなし」を続ける。

制作局サガテレビ(STS)

次回放送内容

OA:2024.11.24(日)

八代市坂本町の鮎帰(あゆがえり)地区にある日光(にちこう)棚田。標高420メートル、里山に囲まれ階段状に連なる田畑の景色はどこか懐かしく安らぎを覚えます。1999年『日本の棚田百選』にも選ばれました。しかし、今は過疎化と相次ぐ離農で耕作放棄地が目立ち、田んぼは畑に切り替わり棚田の風情は過去のものとなろうとしています。この日光棚田で僅かに残った数枚の田んぼで唯一米作りに取り組んでいるのが、野口修さんです。年齢は87歳、農業の経験も無ければ地主でもありません。 野口さんは、2016年広島から坂本町に単身移住、79歳の時でした。数年後日光棚田に出会います。それは素人目線の安易な発想だったかもしれません。廃れていく棚田に想いを募らせ景観を維持できないかと…、野口さんは2020年元米農家の田んぼを借りて米作りを始めます。春は田起こし、苗ができれば田植え、収穫の秋まで水の管理や田の草取り、厄介なシカの防除に至るまで片時も目が離せません。野口さんは苦労をものともせず、四度目の秋を迎えることができました。 野口さんは収穫の喜びとは別に、新たな目標に向かって歩き出していました。本人曰く“僧侶”になると、坂本町へ移住を世話してくれたお寺の住職の力になければと話します。住職の体調を案じた末の決断でした。僧侶の資格を取るため、野口さんはこれまで通信教育でお寺の宗派に関する作法やお経を学んできました。最終課程は京都、得度(とくど)習礼(しゅらい)と呼ばれる修行に入ります。 80歳を目前に単身移住。棚田の景観を守ろうと挑む米作り。そして、今度は僧侶になろうと一念発起。野口さんは、鮎帰の里に新しい風を起こそうとする革命児なのかも!? 何が自身をそうさせるのか!?世の中を憂い立ち上がった青春期に答えは有るようです。 荊(いばら)の道を怯まず自らを進化させ続ける野口さんは間もなく米寿。人生100年時代を迎え、余生を謳歌する今はまだ旅の途中かも知れません。番組では、自らの信念と向き合う野口さんが何を求め何処へ向かおうとしているのか、終の棲み家に選んだ里の日々を追います。

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