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これまでの放送内容 -2013年-

2013年10月13日(日)

おばあちゃんの移動販売車

宮崎県美郷町で商店を営む早川岩野さん(79歳)は毎週月曜日~土曜日まで山間部の集落に移動販売に出かけている…

宮崎県美郷町で商店を営む早川岩野さん(79歳)は毎週月曜日~土曜日まで山間部の集落に移動販売に出かけている。商品は牛乳や豆腐、冷凍食品などの食料品から洗剤やティッシュなどの日用品まで数えきれないほど。現在山間部の小さな集落では過疎化と高齢化が進み、車が運転できないなどの理由で遠く離れたお店まで買い物に行けない高齢者が増えています。そんな人々にとって早川さんの移動販売は、生活必需品を届けてくれるだけでなく、皆集まってお茶や会話を楽しむ交流の場ともなっています。移動販売を続けて45年間、山里の暮らしを支え続けてきたおばあちゃんの移動販売車と山で暮らす人々との交流を追いかけました。

制作局テレビ宮崎(UMK)

2013年10月6日(日)

半泊の祈り~五島・限界集落の夏~

5世帯9人が暮らす五島の小さな集落・半泊( はんとまり) 。そこには、200年続く祈りと暮らしがあった。限界集落、ひと夏の半泊をみつめる。

日本の西の端、五島列島福江島。その北側に、5世帯9人が暮らす小さな集落、半泊(はんとまり)がある。過疎化は進み、子供はいない。半泊は限界集落だ。7年前、廃校になっていたかつての分校に、人が住みはじめた。そして、宿泊施設としても活用するようになった。東京から移住してきた濱口孝さんと妻よしのさんがこの分校に暮らす。半泊の里山の風景が気に入り、田舎暮らしを楽しみはじめた7年前。濱口さんは、半泊の200年を超える祈りの歴史を知った。同時に、過疎化により、200年の祈りの灯が消えそうになっている現実を見た。集落の象徴、半泊教会に向かい、住民たちの祈る姿が日常の光景として見られる。濱口さんは限界集落を考えるようになった。祈りの灯を消さないためには…。その1つの答えを半泊での観光に求めた。自らガイドになり、歴史や自然環境を伝える“学ぶ観光”をはじめた。7年経ち、今は年間約1000人の観光客が来るようになった。濱口さんは観光の先に、あるものを見ている。妻と手を取り合い、その答えを求め続ける日々。番組では、住民の暮らしを描きながら、そこに流れ続ける半泊の祈りを見つめていく。ひと夏の限界集落、半泊を描く。

制作局テレビ長崎(KTN)

2013年9月29日(日)

時代おくれの傑作~巨大イワシ籠に挑む~

熊本県水俣市の高橋博道さんは、伝統の「イワシ籠」を作るこの道40年の職人…

熊本県水俣市の高橋博道さんは、伝統の「イワシ籠」を作るこの道40年の職人。「イワシ籠」はカタクチイワシ(カツオ漁の餌)を漁場から、生きたまま生け簀へ運ぶ道具である。高橋さんには、今季10基の注文があった。縦4メートル・横3メートル・高さ3メートルにも及ぶ巨大な竹籠作りに挑むも、作業は1人。「実用品だけに半端なモノは出せない」、これが高橋さんの信条だ。目を懲らし、へぎ(板状にそいだ竹)の編み目に隙間があればその場で補正する。手荒いようで、細心の注意が払われる。1基当たりの作業は最短で1週間、天気次第では10日以上も…。「イワシ籠」には従来の竹製のほか、最近耐久性のあるプラスチック製が登場。天草のあるイワシ漁師は、心が揺れる。番組では、最後の職人とされる高橋さんの傑出した技とイワシ漁師の思いを描きながら、廃れようとしている「イワシ籠」作りの将来を考える。

出演者:イワシ籠職人 高橋博道さん 【ナレーション】 熊本竜太(テレビ熊本アナウンサー)

制作局テレビ熊本(TKU)

2013年9月22日(日)

緑の地獄 筑豊の労働者が見た日本最南端の炭坑

沖縄県西表島。ここに日本最南端の炭坑があった。戦前から働き、終戦の混乱のため帰郷がかなわなかった筑豊出身の炭坑労働者がいた。

▽沖縄県の西表島に日本最南端の炭坑があった。ここで戦前から働き、終戦の混乱のため帰郷がかなわなかった筑豊出身の炭坑労働者・村田満。彼は戦後25年を経た昭和45年、34年ぶりに故郷・福岡の土を踏むことができた。▽帰郷当時の村田をはじめ西表炭鉱で働く人々38人の体験と「記憶」を「記録」した元新聞記者三木健は、その後も炭坑が遺した意義を問い続ける。▽一方、九州をはじめ本土の旧産炭地は日本の近代化の支えとなった石炭産業を新たな地域おこしとして「遺す」ことに力を注ぐ。山本作兵衛の炭鉱画は文化の域まで達し、2011年には「世界記憶遺産」として世界に認められた。
▽ジャングルに覆われた日本最南端の西表炭坑で悲惨な体験をした筑豊の炭鉱労働者が遺した証言と緑の木々に多い尽くされた炭坑遺跡は何を語るのか。

制作局テレビ西日本(TNC)

2013年9月15日(日)

沈黙を破る時~米軍機墜落の恐怖、今なお~

沖縄が日本に復帰して41年。未だ沖縄では米軍機の墜落事故が年に1件以上のペースで発生している。過去の事故で深い傷を負った人々はどう見つめているのかを追った。

沖縄が日本に復帰して41年。未だ沖縄では米軍機の墜落事故が年に1件以上のペースで発生している事をご存じだろうか。
 2013年にもすでに2件の墜落事故が起きている。この沖縄の現実を、過去の事故で深い傷を負った人々はどう見つめているのかを追った。
1961年12月7日に沖縄県うるま市(旧具志川村)川崎で起きた米軍機墜落事故で顔に大やけどを負った男性がいることを知った取材者は、証言を依頼。それに対し男性は「もう思い出したくない」と一度は拒否。
しかし・・・。
2013年5月28日、米軍機墜落。これを受け、半世紀にわたって沈黙し続けてきた男性は取材を受け入れてくれることになった。沈黙を破る時、男性は何を語るのか―。
また、沖縄で事故が起きた日、1961年12月7日に福岡でも同型の米軍機が墜落し住民4人が犠牲になったことを取材者は知る。一体どんな事故だったのか。それを知るため向かった福岡で、悲しい事故で受けた遺族の傷の深さに直面する。
 こうした悲劇が二度と繰り返されることはないのか―。
実は、そう言いきれない恐ろしい現実が日本にはあることを浮き彫りにする。

制作局沖縄テレビ放送(OTV)

次回放送内容

OA:2024.11.24(日)

八代市坂本町の鮎帰(あゆがえり)地区にある日光(にちこう)棚田。標高420メートル、里山に囲まれ階段状に連なる田畑の景色はどこか懐かしく安らぎを覚えます。1999年『日本の棚田百選』にも選ばれました。しかし、今は過疎化と相次ぐ離農で耕作放棄地が目立ち、田んぼは畑に切り替わり棚田の風情は過去のものとなろうとしています。この日光棚田で僅かに残った数枚の田んぼで唯一米作りに取り組んでいるのが、野口修さんです。年齢は87歳、農業の経験も無ければ地主でもありません。 野口さんは、2016年広島から坂本町に単身移住、79歳の時でした。数年後日光棚田に出会います。それは素人目線の安易な発想だったかもしれません。廃れていく棚田に想いを募らせ景観を維持できないかと…、野口さんは2020年元米農家の田んぼを借りて米作りを始めます。春は田起こし、苗ができれば田植え、収穫の秋まで水の管理や田の草取り、厄介なシカの防除に至るまで片時も目が離せません。野口さんは苦労をものともせず、四度目の秋を迎えることができました。 野口さんは収穫の喜びとは別に、新たな目標に向かって歩き出していました。本人曰く“僧侶”になると、坂本町へ移住を世話してくれたお寺の住職の力になければと話します。住職の体調を案じた末の決断でした。僧侶の資格を取るため、野口さんはこれまで通信教育でお寺の宗派に関する作法やお経を学んできました。最終課程は京都、得度(とくど)習礼(しゅらい)と呼ばれる修行に入ります。 80歳を目前に単身移住。棚田の景観を守ろうと挑む米作り。そして、今度は僧侶になろうと一念発起。野口さんは、鮎帰の里に新しい風を起こそうとする革命児なのかも!? 何が自身をそうさせるのか!?世の中を憂い立ち上がった青春期に答えは有るようです。 荊(いばら)の道を怯まず自らを進化させ続ける野口さんは間もなく米寿。人生100年時代を迎え、余生を謳歌する今はまだ旅の途中かも知れません。番組では、自らの信念と向き合う野口さんが何を求め何処へ向かおうとしているのか、終の棲み家に選んだ里の日々を追います。

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