これまでの放送内容
2011年9月11日(日)
故郷… 天草の海で ~生命を撮る水中写真家~
中野誠志さん32歳。日本のスキューバダイビングの本場、静岡県で修業を積み、9年ぶりに地元・熊本に戻ってきた彼は、今年4月から水中写真家とダイビングショップのオーナーの活動を始めた。
自然のありのままの姿を切り取る水中写真、そのテーマは『生命(いのち)』。ショップの経営を軌道にのせるため、奮闘する中野さんの目に入ったのは、熊本を離れていた間に温暖化の影響で変わってしまった海。様々な人たちとの出会いを通じて、どうしようもない自然の流れを知り、葛藤に悩む中野さん。しかし、彼はありのままの生命の姿を撮り続ける。故郷天草の海を愛する若き水中写真家の新たな歩みを追う。
制作局:テレビ熊本(TKU)
2011年9月4日(日)
ピーマン農家 DJ JOE
1973年、宮崎市の片田舎にあるピーマン農家に1人の男が誕生した
彼の名は「日髙陽一」
将来の夢は「プロ野球選手」朝から夕方まで野球にあけくれ、たまに近所の英語塾で勉強したりもした
3兄弟の長男として真面目に育った彼はなんとか無事に地元の高校を卒業し両親は実家のピーマン農家を継いでくれるものとばかり思っていた
ところが「農業なんか格好悪くてやってられるか」「大金持ちになってデカい車に乗ってブロンドの美女をはべらせてやる」彼はアメリカンドリームを求めて渡米した
渡米した彼はサウスダコタの大学に4年間通いロスでツアコンや通訳として4年間勤め沢山の異国人と、また異国にいる邦人と触れ合ううちにあることに気付いた「金持ちイコール幸せじゃない」
そして海外での農業従事者の世間的ステイタスの高さに驚いた
そのとき、彼の人生は変わった
「宮崎に帰って農家を継ごう」「日本の農業の価値を変えてやろう」28歳で帰郷した彼は実家のピーマン農家を継ぎ、まもなく10年が経とうとしている
農業に従事するかたわら、軟式野球連盟の理事や、地元消防団員
地区の評議会委員などを務め、さらには地元の神社の氏子として神楽まで舞ってしまう
いくつもの顔を持つ「エンターテイナー ピーマン農家」
2年ほど前にはラジオDJも始め担当する番組では地元の若手農家をゲストに招き「農業のステイタス向上」に努めている
しかし彼は今後一体どこへ向かっていくのか?
制作局:テレビ宮崎(UMK)
2011年8月28日(日)
とどかぬ白衣 ~外国人看護師候補者の現実~
2006年に日本がインドネシアと締結したEPA(経済連携協定)。
この協定に伴い、日本がインドネシアの看護師候補者を受け入れる制度がスタートした。来日したインドネシア人は100人以上、日本各地の病院に配属された彼らはすべて母国で看護資格を持つ実務経験者だった。しかし日本の免許を持っていない彼らの仕事は、あくまで看護師の助手。さらに看護師の国家試験に3年以内に合格できなければ帰国という条件がついた。「褥瘡(じょくそう)」や「喃語(なんご)」といった難解な漢字で表現される医療現場の専門用語の数々。それらを理解しないとパスできない国家試験は彼らにとっては極めて高いハードルである。
福岡の総合病院の内科の病棟で看護師の助手として働いているインドネシア人ムリヤディも、日本で看護師になる事を夢見て来日した一人だ。EPA(経済連携協定)に伴う国の制度で認められた日本の滞在期間は3年だが、すでに残された期間は数か月となった。今年2月の試験に落ちれば国に帰らなければならない。そんな中、政府があと一年滞在期間を延長するという動きもでてきた。3月の試験結果、そして彼の決断とは?何度も挫折を繰り返しながらも前も向いて懸命に努力する彼らの姿を追うとともに、この制度の問題点を浮き彫りにする。
制作局:テレビ西日本(TNC)
2011年8月21日(日)
生まれ島に咲きたくて
沖縄を代表する人気シンガー、池田卓。彼の生まれ島は、陸の孤島と呼ばれる西表島船浮。10周年の節目に島に帰ることを決断。生まれ島のために生きていく一人の青年の物語。
沖縄を代表する人気シンガー、池田卓。2000年に『島の人よ』でデビューし、生まれ島への想いを歌い続けて10年。その節目に島へ帰る決断をする。彼の生まれ島は、陸の孤島と呼ばれる西表島船浮。人口は、およそ40人。イリオモテヤマネコが捕獲された場所として知られ、捕獲した人物は、池田卓の父、池田米蔵。父は、息子に教えなければならないことがたくさんあると言う。そして、池田卓自身で企画し、4年前にスタートした『船浮音祭り』。去年、700人もの観客が船浮にやってきたことで、彼は島から歌を届けられる可能性を感じ始める。生まれ島のために生きていく一人の青年の物語。
制作局:沖縄テレビ放送(OTV)
2011年8月14日(日)
中学生たちの戦争 ~追想画が伝える学徒動員~
熊本県の旧制人吉中学の同窓会が今年も開かれた。昭和17年4月の入学。彼らは3年生の時に戦争を背負わされた。学徒動員である。
男たちは戦争にとられ、生産現場は空洞化。中学生や女学生が労働力となった。西峯さんら人吉中の生徒たちは長崎の海軍工場に動員、到着5日目に戦争という現実を目のあたりにする。B29の大空襲だった。同じ熊本から動員されていた御船中の仲間たちに犠牲者が出た。死がすぐそこにあった。
戦争が全てだった時代…深刻な食糧事情が中学生たちを苦しめた。朝から夜まで、今日も明日も「ひもじい」。それは2度と体験したくない日々だった。そんな我が子を思い、親たちは食料を運んでくれた。ただし校則で差し入れは御法度。西峯さんたちは、それぞれの隠れ家で、親たちと会い空腹を満たした。親たちは自分たちの分を削って、我が子へ食料を届けた。西峯さんは、そんな母の愛を防空頭巾に感じていた。「僕の頭巾は他の人より一廻り大きかった」。こうした学徒動員の記憶を、西峯さんは追想画にして画集にした。次の世代に語り継ぐべき戦争。西峯さんの動員学徒追想画は、平和への願いである。
制作局:テレビ熊本(TKU)