放送は終了いたしました。ご覧頂きありがとうございました。
番組で紹介した言葉を掲載しております。こちらよりぜひご覧下さい。
番組では、著名人たちが残した名言を再現VTRなどを交えてご紹介し、
言葉が持つ「チカラ」を紐解いていきます。
またスタジオでは出演者自らが自分の人生に影響を与えた言葉を紹介します。
職場や学校、家庭の中で、明日誰かに話したくなる、そんな素敵な言葉の数々をお届けします。
日本を代表する映画監督の1人、山田洋次。
その代表作の1つ、「男はつらいよ」は映画化の際、経営陣の反対にあい、実現が危ぶまれた経緯がある。
しかし、反対する会社の役員たちを前に言った山田洋次の一言が流れを変えた。
この作品にかける自らの覚悟、
そして仕事に対する山田洋次の姿勢を表したともいえるこの一言がきっかけで、映画「男はつらいよ」は世に送り出された。
スタジオでは、山田がメガホンをとった作品の1つ「幸福の黄色いハンカチ」で俳優デビューした武田鉄矢が、撮影現場での思い出や今でも心に残っているという山田洋次の言葉を語るほか、40代のころ精神的に「追いつめられた」自分を救ってくれたという言葉を紹介する。
多くの人に愛され、惜しまれつつも2012年に57歳という若さで亡くなった、歌舞伎役者18代目中村勘三郎。
「夢があるなら口に出しなさい。実現するから」と語り、
平成中村座など自らもさまざまなことに挑戦した中村勘三郎が残した、基本の大切さを伝える言葉。
歌舞伎界の伝統を守りながらも、常識を破り続けた18代目中村勘三郎だからこその言葉。
何か新しいことを始める際に心にとめておきたい一言だ。
彼は部下に対して常に激しい言葉を投げ続けたという。
あまりにも強引なワンマンぶり。
それでも部下たちは必死にジョブズの要求に応えようとした。
それほど彼は部下たちの尊敬を集め、
何より、ジョブズが誰よりも仕事に打ち込む男だったからだ。
2001年、iPodの発表会で、ジョブズは仕事に対する考えを表したこんな言葉を残している。
この言葉で、ジョブズは世界中に自分たちの仕事に対する姿勢を示したのだった。
勉強しているときに、遊びの話をずっとしてくる友達にストレスを感じ、
勉強が進まなくなっていた。すると、坪田先生がこんな言葉を言った。
最初は筆が進まなかったものの、思い出し書き出していくにつれて、
イライラしていることがすごく申し訳ない気持ちになり、ストレスが解消されたのだった。
2015年6月に行われたAKB選抜総選挙。
彼女が受賞後に語ったスピーチは自信を持てない人が勇気をもらえる言葉だった。
2010年のドラフト会議。
2位指名の直前、王会長からこんな一言が飛び出した。
この言葉をきっかけに本来予定していた選手をやめ、柳田悠岐選手を指名することに。
まだ全国的にも無名の存在で、好不調の波が激しく、凡退を繰り返すことも多かったがパワーだけは桁外れ。
まさに王会長が言った打球を一番飛ばす男だったのだ。
入団後もホークスの厚い選手層の壁に阻まれ、中々1軍に上がることができなかった。
そんなときも王会長は打撃コーチにある言葉をかけていた。
柳田の欠点を直すことよりも、とにかく自慢のパワーを磨くことだけを指示。
2014年その才能が一気に開花し、自身初のベストナインにも選ばれた。
欠点だけを指摘するのではなく、長所を伸ばそうとする王会長の言葉は
現在の教育現場でも活かせる重要なメッセージがあるのではないだろうか。
第24代アメリカ合衆国大統領 ビル・クリントン。
彼が大統領時代、夫婦でヒラリーの故郷を訪れた際、偶然立ち寄ったガソリンスタンドのオーナーはヒラリーの元恋人だった。
それを聞いたビルはこんな冗談を言った。
「ヒラリー、僕と結婚して良かったね。もし彼と結婚していれば君は今頃田舎のガソリンスタンドのおカミさんだ」
それに対しヒラリーは、こんなかっこよすぎる言葉を言ったのだった。
“オリエント急行の殺人”や“そして誰もいなくなった”など、世界的に有名なミステリーの女王 アガサ・クリスティ。
彼女が13歳年下の考古学者マックス・マローワンと再婚したときのこと。
当時、夫が年下の夫婦は珍しく世間を賑わせた。そんな彼女が記者たちに、夫についてこんな言葉を語った。
その言葉通り、二人は生涯仲良く暮らしたという。
NHK朝の連続テレビ小説“花子とアン”。
その中で描かれた伝助と蓮子の物語は実話をもとに作られていた。
伝助のモデルとなった伊藤伝右衛門は、一代で莫大な財産を築きあげた炭鉱王。
その妻・蓮子のモデルとなった白蓮は大正天皇の従妹という身分。
東京から遠く離れた九州(福岡県飯塚市)の地で、不安な白蓮に心地よく暮らしてもらおうと尽くした伝右衛門。
しかし、結婚から十年後に、白蓮は突然駆け落ちし、新聞に白蓮から伝右衛門への絶縁状が掲載された。
新聞にも絶縁状が載ることで全国に恥をさらされ、周囲も大激怒する中、
親族や会社役員の前で彼が言った言葉が、彼の器の大きさを示す言葉だった。
この一言のおかげで白蓮は罪に問われることなく、新しい生活を送ることができたのだった。
2008年、北京オリンピックを7か月後に控えた国別対抗戦W杯。
それまで公式戦119連勝の強さを誇った吉田沙保里が、アメリカの無名選手に実に7年ぶりの敗北を喫した。
人目をはばからず泣きじゃくる吉田。
そんな彼女を救ったのは父・栄勝さんの言葉だった。
この悔しさが自分のレスリングを改めて見つめ直すきっかけとなり、7か月後北京五輪で見事金メダルを獲得したのだった。
フジテレビのアナウンサー時代のこと。
誰でもいい若手女子アナという仕事ばかりが回ってくることが多く、
落ち込んでいた時期があったとき相談した相手が父・高橋英樹だった。
彼が真麻にかけた言葉は、仕事に対する気持ちを変える言葉だった。
この言葉がきっかけで、どんな仕事も全力で臨んだ真麻は徐々にその存在が浸透し、なくてはならないアナウンサーとなった。
福岡県に住む安武信吾さんと千恵さん家族の実話の物語「はなちゃんのみそ汁」。
2002年、乳がん治療を終えたばかりの千恵さんは命がけで生むことを決断し、翌年2月に“はなちゃん”が誕生した。
幸い千恵さんの体は無事で、幸せな毎日を送るのだった。
しかし、2006年の冬。がんの再発が発覚し、はなちゃんが4歳の誕生日を迎えるころから、味噌汁の作り方を教え始める。
そしてはなちゃんが5歳になった年の2008年。千恵さんは33歳という若さで天国へ旅立った。
このとき、はなちゃんは一人で味噌汁を作れるようになっていた。
千恵さんは生前、はなちゃんが出かけるときに必ずしていたことがあった。
それは満面の笑顔ではなちゃんを抱きしめる事。
中学生になったはなちゃんはいまも、毎朝5時に起きて、父信吾さんと一緒に朝食をつくっているという。
朝食を終え、はなちゃんは学校へ。すると、ハグとまではいかないものの二人は笑顔でハイタッチをして出かけていった。
千恵さんの言葉は、7年経ったいまでも2人の心の中で生き続けていた。
スタジオでは武田鉄矢、尾木直樹、太田光代、肥後克広がそれぞれ、職場、学校、夫婦、親子で
大切にしている言葉を紹介します。どれも人生の大事な局面で力を発揮した言葉ばかりです。
このほかにも、ヒラリー・クリントンが大統領時代の夫に言い放った痛快な一言や、福岡ソフトバンクホークス・王貞治会長の、スターを生むきっかけとなったドラフト会議での一言など、珠玉のエピソードの数々をご紹介します。
小学校5年生の時に父親から言われ、今も重く心に残る言葉です。言葉は人間の生き様です。
ただ、言葉そのものだけを字面でとらえても面白くはなく、なぜこの言葉が生まれたのかという脈絡があってこそ、
言葉に力がでてくるものだと思います。
今回は紹介する1つ1つの言葉について、再現VTRや写真などでその時の状況などを丁寧にお伝えしています。
ご覧になっていただければ、きっと楽しんでいただけると思います。
タイトル | 『言葉のチカラ -人生に奇跡を起こした珠玉のコトバたち-』 |
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放送日時 | 2015年9月13日(日)午後4時5分~午後5時20分 フジテレビ系全国ネット放送 |
出演者 | 【MC】 小倉智昭、橋本真衣(テレビ西日本アナウンサー) 【スタジオ出演】 武田鉄矢、尾木直樹、肥後克広(ダチョウ倶楽部)、太田光代、高橋真麻、ホラン千秋、厚切りジェイソン 【スタッフ】 プロデューサー 瀬戸島正治(テレビ西日本) |
制作著作 | テレビ西日本 |