野十郎が太陽を描く場合、夕日を取り上げる場合が多いなか、本作は晴天の日中の太陽を真正面から描いています。月の連作の最終局面である月だけが描かれた作品に対応する、太陽の連作の最終局面に位置する作品です。
太陽の中心部分は、光源の塊をしめすかのように絵具が盛り上げられ、そこから周囲へと面状にひろげ、さらに放射状に細い線を重ねて光の広がりを表現しています。太陽の中心部よりも、むしろ松の枝に降り注いだ光線の描写が、太陽のまぶしさを感じさせます。
「遺稿ノート」の最後のページに書かれた句「花も散り 世はこともなくひたすらに たゞあかあかと陽は照りてあり」に通じる情景です。
秋を彩るコスモス、カンナ、ハゲイトウが、その艶やかさを競い合うかのように咲き誇っています。まるでこちらを見つめるように正面を向いて並び立つ様子は、美しさや華麗さをこえた妖艶な魅力を放ち、どこか不気味な雰囲気さえ感じさせます。
前景に描かれた花の妖艶な姿の向こう側には、雲仙の山並みと有明海の干潟が広がっています。画面中央の深紅のハゲイトウの高さを下げ、左右の端のコスモスの背を高くすることで、背景の風景を花々が飾る役割を果たしているようです。
それぞれの花が一番美しい状態で咲き誇るその一瞬の様子を画面にとどめるかのように描かれた本作ですが、やがて季節がめぐり花々はその命を終え、自然に還っていくことでしょう。しかしながら、その背後の海や空といった自然はいつも変わらぬものとして在りつづけるということ。生きとし生けるものの命の営みや移ろい、そして無常を、この絵は語りかけているのかもしれません。
「エカキ旅行は東北に限る」と言っていた野十郎は、東北地方の中でもとりわけ山形の景色を好み、季節を変えてはたびたび訪れていたようです。一面に真っ白な雪が降り積もる銀世界のなかにたたずむ一軒の民家を描いた本作もまた、画家が愛した山形の雪景色をとらえたものでしょう。
空中に舞う雪は大きさや形を変えて点描され、あたり一面を埋め尽くしています。寒い冬の雪景色でありながら、雪が暖色系の白色で表現されているせいか、寒々しさというよりはむしろ温かみを感じさせます。しんしんと雪の降り積む音だけが聞こえる、静寂に支配された世界がそこにあります。
高島野十郎の作品のなかで最も人気が高く、気品ある魅力的な味わいを醸し出している。野十郎はカラスウリをかなり早い頃から描いていたようだが、現存する完成作はこの作品以外に知られていない。卓上の静物画が大多数を占める野十郎にとっては、これは特異な作品だ。紡錘型に広がって垂れる構図が、絵に安定感と柔らかなふくらみをもたらしている。このたおやかな円弧がつくりだす構図は、赤いカラスウリの実と相似形となって、まるで子をいとおしむ親のような優しさを感じさせる。
実の疎と密のリズミカルな配置も絶妙。また、下方に集まった実が絵に落ち着きを与えている。一見、壁でなく抽象的な背景に見えて、ひとつひとつの実が空間に浮いているような浮遊感を覚えるだろう。よく見ると淡い影が描かれており、これが現実の壁であることが分かる。色数が少なく、単純な構図であるだけに熟達した写実力が、結晶となって輝いている。この作品は最晩年の個展で初めて発表されたが、野十郎にとって秘蔵の一点だったのだろう。(福岡県立美術館副館長・西本匡伸)
《蝋燭》は高島野十郎のトレードマークであり、野十郎をして「蝋燭の画家」と称することもしばしばです。野十郎の《蝋燭》は、ほとんどがサムホール (約25×16㎝)という極めて小さい画面であり、その中心に一本の蝋燭が描かれます。炎の輝きや軸の太さや長さはそれぞれ異なり、ひとつひとつが独特の雰囲気を有しています。蝋燭が一体何を照らしているのかが絵の中で明示されないがゆえに、作品は象徴性を帯び、その神秘的で宗教的な雰囲気ともあいまって、絵に対峙する我々自身の心が揺さぶられるようでもあります。
野十郎は《蝋燭》を生涯にわたって描き続けながらも、決して展覧会に出すことも、いわんや売ることもなく、自分にとって大切な人へ感謝の気持ちを込めて一枚一枚手渡しました。そして野十郎から《蝋燭》を手渡された者たちは、絵の大きさといい、その特殊な主題といい、親密さに溢れた状況の中で眺め続けたのでしょう。
野十郎と、それを贈られた者の濃密な関係性を媒介する《蝋燭》。《蝋燭》が放つあたたかな光は、あまねく世界を照らすわけではないにせよ、野十郎の思いが濃密であるがゆえに、画面から溢れ出て、時空を異にする我々の心にもあたたかな光をともしてくれます。まさに《蝋燭》こそは、交錯する光と闇の表現を探求し続けた野十郎の真骨頂と言えます。
現存するなかでは月を描く最初期の作例である本作は、埼玉県秩父市の三峰集落あたりを描いたものです。秩父の札所をしばしば訪れたり、あるいは《流》の題材となった可能性のある長瀞渓谷からもほど近いこの地は、野十郎にとってはきわめて親しみ深い場所であったのでしょう。
月の作品は、当初は本作のように具体的な場所において写生されていましたが、徐々に場所のイメージが絵の中から捨象され、暗闇の中に浮かぶ月というきわめて抽象化された画面へと変化していきます。
遠くの連山は山腹付近まで雪に覆われて冬の装いですが、里はもう春真っ盛り。一面にピンク色のレンゲソウが咲き誇り、畔にはナタネの黄色い花が列をなし、注意してみてみると、小さなモンシロチョウがレンゲソウの上を乱舞しています。野十郎ははこの春の景色の中を歩き、立ち止まり、においと光と空気を何日間も浴びて、その体感したところすべてを画面の隅々にまで充填させています。ワイドな視野にもかかわらず、描写はどこまでも細かい。広がりと細やかさがスムーズにかみ合って、見る者の目をあちらこちらと楽しませてくれます。本作は昭和32年の福岡での個展出品作と推定され、その目録によると、中央アルプス山麓に取材したとのことです。
本作において描かれているのは、東京都世田谷区にある曹洞宗の寺院、豪徳寺の仏殿であると考えられます。仏教に深い関心を寄せる野十郎にとって、寺院を絵に描くことは、仏の教えに従うことと同じであったのかもしれません。仏殿の右脇には、その枝ぶりから「臥龍桜(がりゅうざくら)」と呼ばれ、江戸時代より親しまれてきた枝垂れ桜があり、野十郎はそれを写したものと思われます。
満開の桜はその花のひとつひとつに至るまで精緻に描き込まれ、妖艶な美しさを放っています。それとは対照的に、ほのぼのとした様子で描かれた3人の子どもたちは、砂遊びに興じています。
本作は、静岡県大宮町(現・富士宮市)の高原から描かれた秋の富士です。山を好んで描いた野十郎でしたが、富士山については、戦後に描かれた2点と本作ぐらいしか知られていません。
本作は制作年から判断すると、ヨーロッパ滞在から帰国間もない時期に描かれたと考えられます。日本に戻って富士を描く心境になったのかもしれません。前景の秋の草木が、素早い筆致で生き生きと描かれています。
みずみずしく、そして艶めかしくもある桃とすももが、画面の中でいくつものV字を構成しながら配置されています。本作をはじめ、ものの配置や明暗が周到に計画されている野十郎の静物画は、息詰まるほどの緊張感にあふれています。桃は思わずふれてみたくなるようなやわらかな質感が表現され、桃の表面に生えた毛までが克明に描かれています。一方、すももは硬質で光沢感のある様子が生き生きと捉えられています。複雑な模様を持つ机上の布、そして皿など、様々な質感を自由自在に描き分ける野十郎の面目躍如ともいうべき本作。背景にぶら下がった緑色の玉がどこか意味ありげで目を引きます。
雪の残る山並みを遠景に、新緑の芽吹く初夏の野路が描かれています。高島野十郎は道のある風景を好んで描きました。清々しさと湿り気とを同時に含みこむ、初夏ならではの独特の空気感を見事に表現している本作においても、彼が主題として選択したのはまさに「道」でした。実景に基づくとはいえ、どこまでも平凡な風景を描いた作品ですが、その平凡さがかえって、絵を見る私たち自身が、いつかどこかで見た風景の記憶を、なつかしさとともに呼び覚ますようでもあります。絵の奥へ奥へと延びるその道を、ひとり立ち止まることなく歩き続ける画家・高島野十郎の姿を想像せずにはいられません。
画面のちょうど真ん中に、大きな枝を広げる大樹が地に足をつけてどっしりと立つ堂々たる姿が捉えられています。奥には樹木の大きさに比して極めて小さい人間の姿があり、その対照性が際立っています。ここで描かれているのは、東京都の新宿御苑にある巨木、モミジバスズカケノキ(プラタナス)。明治期にこの地に植えられて以来、100年以上もの間脈々と命をつないできた古い歴史のある木であり、この木の特徴でもある薄板状に剥がれる樹皮の様子やうねる枝ぶりが活写されています。本作には「春」という題名がついているとはいえ、大樹は冬の姿のまま。一方、桜の花は満開の時を迎えています。木という形をとりながらも、ここで野十郎が描こうとしたのは、冬から春へと向かう、生々しいまでの命のうごめきではないでしょうか。
画面の手前からの強い光で、ものの質感や実在感を執拗なまでに描こうとする野十郎の他の静物画とは異なり、本作では、やわらかな光の効果と空気感を描くことに力が注がれています。すりガラス越しにはやわらかな逆光が差し込み、たおやかなこぶしの花がいけられている壺の側面にはリンゴが反射して映りこみ、その背景には屋外の花木が透けて見えています。淡い桃色が多用された画面は、全体的に柔らかく優しい雰囲気を漂わせていますが、黒い壺と、花瓶の前に並べられたリンゴの赤色が画面を引き締める効果を生んでいます。
無数の菜の花が咲き乱れています。霞がかった春空と黄色い菜の花、緑色の葉や茎、そしてその下に広がる褐色の地面というように、水平の構図が重なるなか、菜の花の茎に、縦に伸びる輪郭線を濃く引くことで垂直性が強調され、画面に絶妙な安定感がもたらされています。
本作は武蔵野の地で取材した作品ですが、野十郎の故郷を流れる筑後川の河原にも春になると菜の花が咲き乱れます。野十郎は、故郷に戻った折に「久々に筑紫の野辺に来てみれば 菜の花夢にさむ雨のふる」と歌を詠んでいますが、故郷の早春の景色と重ね合わせながらこの絵を描いたのかもしれません。すべてこちらを向いて咲きほこる菜の花の様子には圧倒されずにはいられません。そして、花のそばでは、白い2羽の蝶が意味ありげに舞い飛んでいます。
テーブルの上にヴァイオリン、そしてその上に一輪の白百合の花が配されています。百合もヴァイオリンも、野十郎の他の絵画には一度も描かれていないめずらしいモチーフ。画面は茶褐色を主とする暗い色合いをしている中で、その中央に配された百合の花の白さ、そして凛とした美しさがひときわ印象的です。テーブルや楽器という無機的なモチーフとは対照的に、画中において、唯一生命を宿す百合の花は、不自然なほどうねりのある姿で描かれています。命あるものの揺らぎや躍動感を表現しようとしたのでしょうか。野十郎は若い頃から音楽にも関心を持っていたといわれていますが、絵の中に何らかの物語的な含意を読み解きたくなるロマンティックな作品です。
高島野十郎は、ドイツ・ルネサンスの画家デューラーに憧れ、ドイツの古典絵画を学ぶために昭和5~8年の間ヨーロッパに滞在しました。滞欧期の作品は、それまでの初期作品とは異なり、素早い躍動的な筆致がみられることが特徴です。
本作において描かれている、モンターニュ・サント・ジュヌヴィエーヴ通(rue de la Montagne Sainte-Genèvieve)は、パリ5区にある、パンテオンにほど近い南北の小さな通り。そしてこの、ノートルダム寺院を望むモンターニュ通沿いのアパルトマンの最上階の部屋こそが、パリでの野十郎の滞在地であったと思われます。石造りの建物が並び、全体的に褐色が支配する画面であるものの、手前に描かれたベゴニアの赤い花が彩りを添え、通りを行き交う人々や車が画面に動きをもたらしています。野十郎はどのような思いでこの風景を日々眺めていたのでしょうか。
けしの花の花びらや葉の表情が、細部に至るまで精緻にとらえられています。しかし、写真のような無機的な表現とはほど遠く、画家によって再構成されている本作。
深みのある赤い色をした花、うねりながら天へ向かって伸びていく茎、そして、執拗なほど強い陰影表現のとられた葉の表現によって、作品には粘り気のある妖艶な雰囲気が与えられています。
虞美人草という別名を持つこの花の、妖しいまでの美しさのみならず、情念のようなものすら込められているようにも感じられる「けし」には、野十郎の初期作品の特徴が顕著に表れています。
野十郎の自画像は現在のところ4点だけが知られています。それらは東京帝国大学在学中の20歳代半ばから、卒業後本格的に絵を描き始めた30歳代前半頃に描かれた、画業の初期のもので、そこから彼の若き日の姿をうかがい知ることができます。
いずれもきわめて個性的な表情を見せていますが、33歳のときに描かれた「りんごを手にした自画像」は、他の作品にも増して謎めいた趣があります。袈裟を身に着け、リンゴを右手に持ち、左手は印を結ぶような仕草。彼は長兄である髙島宇朗の影響を受け、仏教に強い関心を抱いたと言われています。一方、リンゴは本作以前から彼が好んで描いた対象でした。
推察するならば、仏教的なるものと、「絵画」を暗示するリンゴが登場するこの自画像は、絵を描くことは仏の教えに沿うのだと語っているようにも解釈できます。こちらを見つめる、鋭く野心に満ちた眼差しは、画家として身を立てていくという強い決意表明でしょうか。